火薬の密売について――『年羹堯奏摺』より
本記事は、2008年に掲載した満文史料の翻訳を全面的に修正・改訳したものである。
史料原文の出典は下記のとおり。
『宮中檔満文奏摺-雍正朝』、年羹堯 奏、〈奏請厳査火薬由内地流向辺地事〉、雍正01年11月20日、故宮156824号、件1、国立故宮博物院 ⋈ 清代檔案検索系統、(2025/10/27閲覧)
https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php?act=Display/image/5280032=tw0Cri/pdf#42lなお、『年羹堯奏摺専輯』上、中、下(台北国立故宮博物院、1971年)では、「奏請厳禁売火薬給厄魯特摺」(『年羹堯奏摺専輯』(上)pp227~228)として収載。
翻訳に当たっては、漢訳である季永海・李盤勝・謝志寧翻訳点校『年羹堯満漢奏摺訳編』天津古籍出版社、1995年,pp.44-45「42.奏請厳禁売火薬給厄魯特摺」を参考とした。
本史料の背景は、雍正元年(1723年)に発生し、翌年鎮圧された、いわゆる「ロブザン=ダンジンの乱」である。
「いわゆる」をつけた理由だが、この事件はこれまで一般に青海ホシュート部のロブザン=ダンジンが清朝の待遇に不満を持って起こした「反乱」とされていたが、近年の研究により、この事件が単純な清朝への「反乱」とは言えなくなりつつあるからである。背景には青海ホシュート部の内紛、清朝内の動向など複雑な事情が絡んでいるようである。
詳しくは、末尾の参考文献を参照されたい。
本史料は、清朝の鎮圧軍の司令官として「撫遠大将軍」に任じられた年羹堯が現地から送った報告の奏摺である。
内容は、年羹堯が現地において、敵である「賊」が使用している火薬が中国内地から流れていることを報告し、それに対して辺境の管理を強化して火薬の密売を阻止することを雍正帝に提案し、裁可を得たというものである。
清朝の内地から横流しされた火薬さらには火器が周辺諸勢力に流れている例は、この史料以外にも見られる。
凡例
原文の満洲語はメーレンドルフ式ローマ字によりローマ字化した。
*は一字擡頭、**は二字擡頭を示す。
/は改行、//は奏摺の改頁を示す。
満洲語の句読点は単点は「,」、二重点は「,,」で示す。
皇帝の硃批は[硃批:abcdef]で示した。
( )内は訳者による補足。
満洲語意訳では読みやすさを考慮して、句読点の位置・種類を適宜変更した。満洲語意訳では原文の改行、擡頭は反映していない。
逐語訳
//1 wesimburengge,
奏すること。
1//2 〇goroki be dahabure amba jiyanggiyūn,taiboo,gung,/
撫遠大将軍、太保、公、
sycuwan šansi dzungdu amban niyan geng yoo i gingguleme/
四川、陝西総督臣年羹堯が謹み
wesimburengge,getukeleme/wesimbure jalin.huhu noor i baita tucikeci,ba bai jafaha/
奏すること。明らかに奏するため。青海の事(1)huhu noor i baita 青海の事。雍正元年(1723年)に発生した「ロブサン=ダンジンの乱」を指す。が生じてより、処々の捕らえた
ūlet fandz sabe fonjici,ceni baitalaha tuwai okto,
オーロト(2)ūlet オーロト(エルート、厄魯特)。オイラト人を指す呼称で、ここでは青海ホシュート部の人を指す。・番子(3)fandz 番子は中国周辺の諸民族を指す言葉で、ここでは青海現地のチベット人などを指す。らを尋問すると、彼らの用いた火薬は、
2//3 udu ceni dorgi weilehengge majige bicibe,amba dulin,/
たとえ彼らの中で作ったものは少ないとはいえ、大半は、
gemu dorgi baci udahannge sembi,jakan liyang jeo i/
みな内地から買ったものと言っている。さきごろ涼州の
bade hūlhai funde tuwai okto be udara urse be juwe/
地で賊(4)hūlha 賊。ここでは「ロブザン・ダンジンの乱」での「反乱軍」を指す。の代わりに火薬を買う者たちを二
mudan jafafi,gemu fafun i gamahabi.uttu ofi,šansi/
度捕らえて、法により処分している(5)fafun i gamahabi 法により処分している。原形は「fafun i gamambi 法により処分する」で、これは「死刑に処す」の婉曲表現であり、漢語の「正法」に当たる。。そこで、陝西
sycuwan ere juwe goro i jase bitureme bisirele bade,amban bi
四川これら二省の辺界に沿いあらゆる所に、臣わたくしが
3//4gemu ciralame fafulame yaya tuwai okto,cai abdaha be/
みな厳しく禁令を出し一切の火薬、茶葉を
huhu noor i urse de uncarangge be nambuci uthai fafun i /
青海の者たちに売る者を捕縛すればただちに法により
gamambi seme fafulahabi,jyli,sansi,yūn nan ere ilan/
処分(6)同上。すると禁令を出している。直隷、山西、雲南この
goroi jase bitureme bisirele bade,bairengge,/
三省の辺界に沿いあらゆる所にて、請うことは、
/**enduringge ejen,hese wasimbufi,tulergi monggoso de tuwai
聖主が、旨を下して、外モンゴル人らに火
4/5okto uncara be ciralame fafularao,ūlet se tuwai okto/
薬を売るのを厳禁されまいか。オーロトらが火薬を
baharakū oci,udu miyoocan bihe seme inu baitakū ombi,/
得なければ、たとえ鳥鎗があったとしても役に立たなくなる。
erei jalin gingguleme/wesimbuhe,,/
このために謹み奏した。
[硃批:ilan goro de yooni ciralame fafulaha,]/
[硃批:三省にすべて厳しく禁令を出した。]
hūwaliyasun tob i sucungga aniya omšon biyai orin。
雍正元年十一月二十日。
意訳
奏すること。
撫遠大将軍、太保、公、四川、陝西総督臣年羹堯が謹み奏すること。明らかに奏するため。青海の事が生じてより、処々の捕らえたオーロト・番子らを尋問すると、彼らの用いた火薬は、たとえ彼らの中で作ったものは少ないとはいえ、大半は、みな内地から買ったものと言っている。さきごろ涼州の地で賊の代わりに火薬を買う者たちを二度捕らえて、死刑に処している。そこで、陝西・四川これら二省の辺界に沿いあらゆる所に、臣わたくしがみな厳しく禁令を出し一切の火薬、茶葉を青海の者たちに売る者を捕縛すればただちに死刑に処すると禁令を出している。直隷、山西、雲南この三省の辺界に沿いあらゆる所にて、請うことは、聖主が、旨を下して、外モンゴル人らに火薬を売るのを厳禁されまいか。オーロトらが火薬を得なければ、たとえ鳥鎗があったとしても役に立たなくなる。このために謹み奏した。
[硃批:三省にすべて厳しく禁令を出した。]
雍正元年十一月二十日(1723年12月17日)。
参考文献
「ロブザン=ダンジンの乱」に関する主な史料・論著は以下のとおり。
史料・論著は他にも無数に存在するので、下記の参考文献からたどっていただきたい。
史料
明実録、朝鮮王朝実録、清実録資料庫(中央研究院歴史語言研究所・韓国国史編纂委員会)
https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mql/login.html
国立故宮博物院 清代檔案検索系統(台北国立故宮博物院)
https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php
『宮中檔雍正朝奏摺』 台北国立故宮博物院、1981年。
『年羹堯奏摺専輯』上・中・下、台北国立故宮博物院、1971年。
季永海・李盤勝・謝志寧翻訳点校『年羹堯満漢奏摺訳編』天津古籍出版社、1995年、p.147「166.奏聞製造子母砲摺」。
論著
(日本語)(著者名五十音順)
石濱裕美子「グシハン王家のチベット王権喪失過程に関する一考察――ロプサン・ダンジン(Blo bzang bstan ’dzin)の「反乱」再考――」『東洋学報』69-3・4、1988年,pp.51-171。
岩尾一史・池田巧 編『チベットの歴史と社会』上 歴史篇・宗教篇、臨川書店、2021年。
加藤直人「台北・国立故宮博物院編 年羹尭奏摺」『東洋学報』60(3・4)、1979年,pp.226-235。
加藤直人「一七二三年ロブザン・ダンジンの反乱――その反乱前夜を中心として」護雅夫(編)『内陸アジア・西アジアの社会と文化』山川出版社、1983年, pp.323-368。
加藤直人「ロブサン・ダンジンの叛乱と清朝――叛乱の経過を中心として」『東洋史研究』45-3、1986年, pp.28-54.
斉光「清朝による「ロブザン=ダンジンの乱」鎮圧とアラシャン=ホシュート部」『社会文化史学』(50) 2008年,pp.43-66
斉光「「ロブザン=ダンジンの乱」前後における青海ホシュート部の動向」『内陸アジア史研究』24、2009年,pp.39-60。
佐藤長「ロブザンダンジンの反乱について」『史林』55-6、1972年,pp.1-32→佐藤長『中世チベット史研究』同朋舎出版、1986年,pp.383-423。
佐藤長『中世チベット史研究』同朋舎出版、1986年。
宮脇淳子『最後の遊牧帝国――ジューン=ガル部の興亡』講談社、1995年。
(中国語)
斉光『大清帝国時期蒙古的政治与社会――以阿拉善和碩特部研究為中心』復旦大学出版社、2013年。
注
| 戻る1 | huhu noor i baita 青海の事。雍正元年(1723年)に発生した「ロブサン=ダンジンの乱」を指す。 |
|---|---|
| 戻る2 | ūlet オーロト(エルート、厄魯特)。オイラト人を指す呼称で、ここでは青海ホシュート部の人を指す。 |
| 戻る3 | fandz 番子は中国周辺の諸民族を指す言葉で、ここでは青海現地のチベット人などを指す。 |
| 戻る4 | hūlha 賊。ここでは「ロブザン・ダンジンの乱」での「反乱軍」を指す。 |
| 戻る5 | fafun i gamahabi 法により処分している。原形は「fafun i gamambi 法により処分する」で、これは「死刑に処す」の婉曲表現であり、漢語の「正法」に当たる。 |
| 戻る6 | 同上。 |